百瀬 慎太郎 對山館の前で(大正7年) 大沢小屋脇にあるレリーフ
 戦国武将富山城主佐々成正が豊臣秀吉に追われ、徳川家康に援軍を請う為冬の雪山越えをしたのが
針ノ木峠だと言う伝説が残っています。
この針ノ木峠に昭和5年針ノ木小屋を創設したのが、百瀬慎太郎です。これより数年前の大正14年には
大沢小屋を開設しています。
百瀬慎太郎は明治25年信濃大町の對山館に生まれました。大町中学在学中に初めて白馬岳に登り、
山の魅力にとりつかれ、18歳で日本山岳会(会員番号215)に入会しています。
後立山連峰逆縦走や積雪期立山、針ノ木越えなどの山行や、日本で初の山案内人組合を設立(大正6年)し
優秀な案内人の育成、指導にあたるなど、登山史にのこる活動をしました。
一方で文学の才能にも恵まれ短歌、随筆、新聞、雑誌への寄稿など、多くの作品を残しています。
特に短歌は20歳で若山牧水の門下となり、生涯にわたり800首以上を創作しました。
昭和54年に刊行された『昭和萬葉集』(講談社)にも3首が選ばれ掲載されました。
「針ノ木峠雑談」と題された随筆の中のワンフレーズ「山を想へば人恋し、人を想へば山恋し」は
広く人口に膾炙した言葉として、多くの登山者に親しまれ、ポスター、パンフレット、土産品などにも使われている
のをしばしば見かけます。
父金吾より継承した對山館は登山基地大町にあって、多くの著名な岳人、文人、画家が集う文化サロン
として、その存在が知られていきました。
後年マナスル登山隊の隊長をされ、友人の一人として親交の深かった故槇有恒氏は「アルプス登山史上
大きな寄与をなしているツェルマットのホテル・モンテローザのあることは周知のところであるが
對山館は日本アルプス登山史上、これにも比すべき業績を持つものと思う。」と書いておられます。
その對山館も戦時色深まる中、昭和18年ついに廃業となりました。
この時のことを「宿主は元禄、享保の頃よりの業を廃めむとさびしく語る」と詠んだ住友男爵(幸吉氏)
の歌が残っています。
そして慎太郎は昭和24年3月食道がんで亡くなりました(享年58歳)。
没後5年が経った昭和28年には友人、有志の手により、大沢小屋入口横にレリーフが建設されました。
これを契機に、慎太郎を偲び安全登山を祈る開山祭として、毎年6月第一日曜日に「慎太郎祭」が
おこなわれるようになり、今も続く行事になっています。


 戦時中休眠状態であった針ノ木小屋は、慎太郎の長女百瀬美江の手で再建、再開されました。
戦後間もなく、物資や交通手段の乏しい(大町〜扇沢線の開通やヘリコプターによる物資輸送は
昭和30年代後半の事)時代を、当時珍しかった女性の経営者として、父の遺志を継ぎ、登山者
のために尽力しました。
昭和45年からは美江の長男堯も家業を手伝い、その後経営を引き継ぎ、現在に至っています。
昭和初期の針ノ木小屋(左)と大沢小屋
大正14年 大沢小屋開設(慎太郎) 昭和45年 大沢小屋を改築、二階建てとなる(美江)
昭和5年 針ノ木小屋開設(慎太郎) 昭和61年 針ノ木中央ベッド室改築、二階建てへ(堯)
昭和25年 戦争で放置されていた小屋を再建、再開(美江) 平成7年 昭和44年建築の食堂、厨房を一新、玄関も南側に移動、二階客室も広くなる(堯)
昭和31年 針ノ木ベッド室増築(美江) 平成8年 大沢小屋改修、改装(堯)
昭和39年 針ノ木ベッド室東側に玄関、売店部分増築(美江) 平成17年 バイオトイレ、乾燥室を小屋内に(二階従業員室) 別棟に食品庫建設(堯)
昭和44年 25年再開当時の旧部分を解体、新しく食堂、厨房(二階客室)を新築(美江)

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